大阪産(もん)名品の会


大阪産(もん)名品の会

大阪産(もん)事業者の歴史


株式会社 大阪の駿河屋

【古来より受け継がれた駿河屋羊羹の「こころ」】羊羹の老舗 駿河屋

 


 





 ◆寛正二年(1461年)
 岡本善右衛門は京都伏見で創業し、

 鶴屋と云いました。



 


◆天正十七年(1589年)
四代目善右衛門が羊羹を創案し、伏見羊羹の名で売り出しました。
この上品な甘味の高い羊羹は茶道と相俟って通人に好まれ、秀吉の北野神社の大茶会に用いられています。

 


◆慶長十四年(1609年)
五代目善右衛門は紀州公の要請にしたがい、伏見を弟の善一郎にまかせて和歌山に移り和歌山店を開きました。

 


◆貞享二年(1665年)
紀州三代領主網教に、五代将軍綱吉の娘鶴姫が嫁がれるにおよび、高貴の名に惮かって屋号の鶴屋を廃止し、二代領主光貞より賜った駿河屋の屋号に伏見店ともども改名しました。大阪の駿河屋

 


◆天保八年(1837年)
十二代目善右衛門が三男の善三郎を店主にして船場淡路町に大阪店を開き、御用菓子を大阪城中に納入すると共に浪速の和菓子づくりに励みました。

 


以来羊羹の製法を今に受け継ぎ、常に顧客の味覚にお応えすべく精進いたしております。

 



 


 


 




 


 



●大阪の駿河屋の詳しい紹介はこちら




岡部製菓 株式会社

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明治33年生まれの初代岡部憲次は、大阪市南区松屋町の先代三友商店に入店し、
かりんとうの製造を習いました。
写真は当時の仕事仲間と一緒のもので、上の段右から2番目。

 

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岡部憲次は、その後三友商店から分家独立した大糸商会に移り、満30歳まで職長として勤務、
当時オランダと呼ばれていたかりんとうの製造技術を習得しました。

大糸商会当時の記念写真で右側。その後ついに昭和4年天王寺区上之宮町で独立開店!
大流行りでかりんとうを運ぶ、当時貴重だった一斗缶はかなり使い回されています。
当時の従業員の写真です。

 

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昭和23年現在地に「株式会社小緑本舗」を設立、
26年に社名を「岡部製菓株式会社」に変更し、
以来かりんとうの製造を一筋に手がけてきました。

 

 

 

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雑誌「大阪人」.jpg

そしてここから現在に至ります。
かりんとうをオランダと呼んだ時代がありました。
以前取り上げていただいた「大阪人」という雑誌にも
岡部製菓の紹介にこのような記事を載せてくださいました。

 

 

 

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2014年12月号「日本のおやつ」に掲載して頂きました。

 

 

 

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2009年8月発行の「恋しや 駄菓子 かりんとう」
著者名:里文出版/編
の中で弊社が紹介されました。

 

 

 

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現在は、三代目岡部友彦が社長です。

産経新聞に載った時の写真です。

 

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【会社の歴史】
大正元年     創業者岡部憲次 大阪三友商店に入店し油菓製造を習得
昭和04年9月   天王寺区上之宮町で独立開店
昭和15年     大阪カリント甘味有限会社を設立し、軍納品を生産
昭和23年11月  現在地に移転し、資本金30万円の株)小緑本舗を設立           
昭和26年03月  現在の社名に改名
昭和35年9月   現社長の父岡部謙造代表取締役に就任
昭和53年9月   かりんとう連続生産設備導入
昭和62年8月   岡部友彦代表取締役に就任 
現在に至る

●岡部製菓の詳しい紹介はこちら


岡村製油 株式会社

■1892年(明治25年)
 岡村製油所創立 植物油脂の製造開始
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■1937年(昭和12年)
 株式会社岡村製油所設立 個人事業を承継

 


■1948年(昭和23年)
 岡村製油会社に社名変更

 


■1954年(昭和29年)
 脂肪酸生産開始

 


■1967年(昭和42年)
 キシロース生産開始

 


■1969年(昭和44年)
 JASの認定工場となる

 


■1977年(昭和52年)
 高級二塩基酸生産開始

 


■1992年(平成4年)
 創業100周年を迎える

 


■1998年(平成10年)
 ISO9001認証取得

 


■2005年(平成17年)
 ISO14001認証取得

 


■2007年(平成19年)
 一番搾り綿実油販売開始

 


■2012年(平成24年)
 岡村製油120周年を迎える

 


■2014年(平成26年)
 和歌山工場設立

 


大阪戎橋筋をぐら屋 (小倉屋 株式会社)

■明治十七年
・松原久右衛門の養子、久七が二代目当主となる

・明治十五年出版の「商工技芸浪華の魁」に、「こんぶ商小倉屋松原久七」とあり、 店の看板には「浪花一流」と記されている。この「浪花一流」の意味合いには、 「岩おこし」と共に昆布が大阪名物として馴染まれていたことを物語る。

 

 

 

■明治二十二年
・久七の長男、松原新治郎が三代目当主となる

 

 

■明治三十年
・池上時三郎、戎橋筋小倉屋を設立


 

 

 

 

■明治三十六年
・池上時三郎(三代目姉婿)が四代目当主となる

 

 

■明治三十六年三月 
・大阪で第五回内国勧業博覧会開催
昆布業界からは、伝統的な風味を代表するものとして、おぼろ・とろろ・青昆布などを出展するとともに、刻み昆布の製造工程を図解するなど昆布のデモンストレーションを行なった。小倉屋ものこの出展に参画。時三郎は厳選吟味したおぼろやとろろ昆布で高い評価を得た。

 

 

■昭和十五年 
・織田作之助が小説『夫婦善哉』を発表
作中にをぐらやの山椒昆布のことが触れられている。

 

 

■昭和二十一年
・池有限会社小倉屋に改組

 

 

■昭和二十五年
・有限会社を改組し、小倉屋株式会社を設立
この組織改革は、時代の流れを見た一恵が、 これからは株式組織にして、近代経営で進まなければ発展が望めないと判断し、 時三郎の了承を得て実現したものである。

 

 

■昭和二十七年 
・小倉屋中興の祖、四代目当主時三郎が他界
その人望の厚さを物語るように故人を偲ぶ会葬者は数百人を数えた。 激動の時代にあって、波乱の生涯を生き抜いた人物であった。

 

 

■昭和二十七年
・池上一恵が六代目当主となる

 

 

 

■昭和三十年 
・第四回近畿水産加工たべもの展で『汐冨貴』が農林大臣賞受賞
出展物に対しては、「味がよい」「見栄えがよい」「姿形がよい」にポイントをおいて審査された。 また同展ではのちの第二十一回展(昭和四十七年)で『白慰(しろのじょう)』も同じ賞を受賞している。

 

 

 

 

■昭和三十二年
第二十四回水産品評即売会で『扇翁』『汐冨貴』が農林大臣賞受賞

 

 

 

 

■昭和三十二年
山崎豊子が処女作『暖簾』を発表
生家の小倉屋山本を素材に、昆布商人八田吾平とその息子の孝平とが、 昆布一筋に生きる姿をドラマチックに描き上げた。 全国各地に"のれんブーム"を巻き起こし、昆布に対する関心を高めることとなった。

 

 

■昭和三十二年
なんなんタウンに出店

 

 

■昭和三十八年
ホワイティうめだに出店
ホワイティうめだ店は、地下鉄・ウメダ地下センターがオープンした際に開設。 四十五年にはさらに拡張されて、東側に「泉の広場」が出現。格好の待合場所となり、通行客が増えるにつれて、うめだ店の店頭商品の回転も早くなった。

 

 

■昭和四十三年
アベノ地下センターに出店

 

 

■昭和四十五年
なんばウォークに出店

 

 

■昭和四十五年三月
日本万国博覧会(大阪万博)開催
参加国は七十七、全国各地から観覧者が集まり、会期中の入場者はのべ六千五百万人にのぼった。小倉屋の本店はじめ各支店で昆布が売れに売れ、食事もできない程の忙しさであった。

 

 

■昭和四十七年
第二十一回全国水産加工たべもの展で『白尉(しろのじょう)』が農林大臣賞受賞
この栄誉に浴したことで、四十七年東京で開催された第十一回農業祭中央式典にて『白慰』の展示即売会を行い、一味ちがう関西の絶妙な味を広めていった。

 

 

 

 

■昭和五十六年
第三十回全国水産加工たべもの展で『殿上昆布』が農林大臣賞受賞

 

 

■昭和五十八年
池上勇が七代目当主となる

 

 

■昭和六十二年
堺営業所開設(工場併設

 

 

■昭和六十三年
新神戸オーパ店開設

 

 

■平成三年
第四十回全国水産加工たべもの展で『佳肴』が農林大臣賞受賞

 

 

 

■平成三年
味わいばしビルを竣工
その名の"味わい"とは食に対する深い感謝のこめられたもの ー四季折々の自然の恵み、つちかわれた歳月の重み、人々の営みを表しております。また"はし"は水の都、大阪にはかかせないシンボル。そして日本の食習慣の中で独特な美意識によって生まれた箸の意もこめられております。昔より、賑わいにあふれます戎橋の地に誕生いたします"味わいばし"。これよりは日本人にとってかけがえのない和の食、ひいては和の文化、心を表現してまいります。

 

 

■平成七年
第四十四回全国水産加工たべもの展で『美名味』が農林大臣賞受賞

 

 

 

 

■平成七年
平成こんぶ塾開設 池上勇、塾長に就任
11月15日、昆布の日に開講。
昆布の歴史、生産、流通、消費、科学などにわたって昆布を多角的に学ぼう、との主旨のもとに発足。

 

 

■平成十年
戎橋筋小倉屋が創業百五十年を迎える

 

 

■平成十五年
甲子園店出店

 

 

■平成十七年
そごう心斎橋本店に出店

 

 

■平成二十一年
池上時治郎が八代目当主となる

 

 

 


株式会社 小倉屋山本



嘉永元年
初代 のれん分けから始まる小倉屋山本

小倉屋山本の創業者、初代山本利助は兵庫県淡路島に生まれ、10歳前後で大阪の松原久七のもとへ丁稚奉公に入りました。久七はびんつけを商う小倉屋に奉公していましたが、この店が代々一子相伝でのれん分けが許されなかったため、昆布の小倉屋としてのれん分けされ、店を構えていました。そこへ訪れた利助は熱心に勤め、嘉永元(1848)年のれん分けを許され、新町橋のたもとに店を開きました。これが小倉屋山本創業の時です。利助は「何事も堪忍」と書いた額を毎日礼拝し、夫婦で力を合わせて、今日の小倉屋山本の礎を築きました。





大正
二代目 時代を先取りした百貨店への挑戦

新しいことにチャレンジする精神を持ち合わせていた二代目は「これからの時代は百貨店 だ」といちはやく時代の流れを読み取り、百貨店の食料品部と取引を開始しました。大正時代、量産、量販の近代化が始まり、小倉屋山本も「商いから実業へ」と商売のかたちを変えていきました。





昭和
三代目 戦後新たな「小倉屋山本」の誕生

大阪大空襲で全焼した店を再興し、またのれんと品質へのこだわりと誇りから店名を「小倉屋山本」としました。昭和24年「えびすめ」を発売し、雑誌に「うますぎる昆布」として紹介され話題となり、昭和29年には農林大臣賞を受賞しました。その後、小説『暖簾』が映画化されると、小倉屋山本はますますその認知度を高めていきました。






平成
四代目 さらなる昆布の可能性を追求

現在、小倉屋山本は浪速を代表する老舗として広く知られるようになりましたが、四代目は、それに甘んじることなく、さらなる昆布の可能性を常に追求しています。そして、おいしく、日常的に、適正な価格で食べていただける商品を創ることを、これからの小倉屋山本の使命と考え、伝統と新しい技術の融合を図りながら、前進を続けています。