■明治十七年
・松原久右衛門の養子、久七が二代目当主となる
・明治十五年出版の「商工技芸浪華の魁」に、「こんぶ商小倉屋松原久七」とあり、 店の看板には「浪花一流」と記されている。この「浪花一流」の意味合いには、 「岩おこし」と共に昆布が大阪名物として馴染まれていたことを物語る。
■明治二十二年
・久七の長男、松原新治郎が三代目当主となる
■明治三十年
・池上時三郎、戎橋筋小倉屋を設立
■明治三十六年
・池上時三郎(三代目姉婿)が四代目当主となる
■明治三十六年三月
・大阪で第五回内国勧業博覧会開催
昆布業界からは、伝統的な風味を代表するものとして、おぼろ・とろろ・青昆布などを出展するとともに、刻み昆布の製造工程を図解するなど昆布のデモンストレーションを行なった。小倉屋ものこの出展に参画。時三郎は厳選吟味したおぼろやとろろ昆布で高い評価を得た。
■昭和十五年
・織田作之助が小説『夫婦善哉』を発表
作中にをぐらやの山椒昆布のことが触れられている。
■昭和二十一年
・池有限会社小倉屋に改組
■昭和二十五年
・有限会社を改組し、小倉屋株式会社を設立
この組織改革は、時代の流れを見た一恵が、 これからは株式組織にして、近代経営で進まなければ発展が望めないと判断し、 時三郎の了承を得て実現したものである。
■昭和二十七年
・小倉屋中興の祖、四代目当主時三郎が他界
その人望の厚さを物語るように故人を偲ぶ会葬者は数百人を数えた。 激動の時代にあって、波乱の生涯を生き抜いた人物であった。
■昭和二十七年
・池上一恵が六代目当主となる
■昭和三十年
・第四回近畿水産加工たべもの展で『汐冨貴』が農林大臣賞受賞
出展物に対しては、「味がよい」「見栄えがよい」「姿形がよい」にポイントをおいて審査された。 また同展ではのちの第二十一回展(昭和四十七年)で『白慰(しろのじょう)』も同じ賞を受賞している。
■昭和三十二年
第二十四回水産品評即売会で『扇翁』『汐冨貴』が農林大臣賞受賞
■昭和三十二年
山崎豊子が処女作『暖簾』を発表
生家の小倉屋山本を素材に、昆布商人八田吾平とその息子の孝平とが、 昆布一筋に生きる姿をドラマチックに描き上げた。 全国各地に"のれんブーム"を巻き起こし、昆布に対する関心を高めることとなった。
■昭和三十二年
なんなんタウンに出店
■昭和三十八年
ホワイティうめだに出店
ホワイティうめだ店は、地下鉄・ウメダ地下センターがオープンした際に開設。 四十五年にはさらに拡張されて、東側に「泉の広場」が出現。格好の待合場所となり、通行客が増えるにつれて、うめだ店の店頭商品の回転も早くなった。
■昭和四十三年
アベノ地下センターに出店
■昭和四十五年
なんばウォークに出店
■昭和四十五年三月
日本万国博覧会(大阪万博)開催
参加国は七十七、全国各地から観覧者が集まり、会期中の入場者はのべ六千五百万人にのぼった。小倉屋の本店はじめ各支店で昆布が売れに売れ、食事もできない程の忙しさであった。
■昭和四十七年
第二十一回全国水産加工たべもの展で『白尉(しろのじょう)』が農林大臣賞受賞
この栄誉に浴したことで、四十七年東京で開催された第十一回農業祭中央式典にて『白慰』の展示即売会を行い、一味ちがう関西の絶妙な味を広めていった。
■昭和五十六年
第三十回全国水産加工たべもの展で『殿上昆布』が農林大臣賞受賞
■昭和五十八年
池上勇が七代目当主となる
■昭和六十二年
堺営業所開設(工場併設
■昭和六十三年
新神戸オーパ店開設
■平成三年
第四十回全国水産加工たべもの展で『佳肴』が農林大臣賞受賞
■平成三年
味わいばしビルを竣工
その名の"味わい"とは食に対する深い感謝のこめられたもの ー四季折々の自然の恵み、つちかわれた歳月の重み、人々の営みを表しております。また"はし"は水の都、大阪にはかかせないシンボル。そして日本の食習慣の中で独特な美意識によって生まれた箸の意もこめられております。昔より、賑わいにあふれます戎橋の地に誕生いたします"味わいばし"。これよりは日本人にとってかけがえのない和の食、ひいては和の文化、心を表現してまいります。
■平成七年
第四十四回全国水産加工たべもの展で『美名味』が農林大臣賞受賞
■平成七年
平成こんぶ塾開設 池上勇、塾長に就任
11月15日、昆布の日に開講。
昆布の歴史、生産、流通、消費、科学などにわたって昆布を多角的に学ぼう、との主旨のもとに発足。
■平成十年
戎橋筋小倉屋が創業百五十年を迎える
■平成十五年
甲子園店出店
■平成十七年
そごう心斎橋本店に出店
■平成二十一年
池上時治郎が八代目当主となる
あ
か
さ
た
な
は
ま
や
ら
わ