●大正8年(1919):
前年の7月、荒木源四郎は長く務めた三菱長崎造船所を定年退職。
51歳にして、出島の一角長崎市千馬町に菓子店「扇正軒」を創業。カステラづくりに精を出す。
●大正13年(1924):
経済恐慌により手がけた事業を失った源四郎は、長崎を後にし、唯一残ったカステラ業で再起を図るため大阪へ。
大阪市東区大手通(現中央区大手通)に格好の家を見つけ「合資会社長崎堂」を起ち上げる。
●昭和9年(1934):
缶詰カステーラの発明特許を取得。カステラの日持ちを良くすることに成功する。 発明の名称は「長期保存に耐えられるカステーラ類の製造方法」であった。
商品特性を活かし、満州・南洋群島・東南アジアに缶詰カステーラを送り好評を博す。
研究熱心であった源四郎の姿が、この商品からもうかがえる。
●昭和17年(1942):
太平洋戦争の激化による経済統制により、操業を一時中断せざるを得なくなる。
●昭和18年(1943):
天神橋南詰めの店舗は引き払い、源四郎は名古屋へ。それにより経営は二代目敏夫に継承される。
●昭和26年(1951):
周防町(現中央区心斎橋2-1-29)現在の本店の場所に「本舗 長崎堂」の看板を揚げる。
●昭和29年(1954):
会社組織を改め、本社を周防町(現本社)に置く。
このころ一郎の学友の父を通して、作家武者小路実篤と親交が深まり、包装紙のデザインを依頼することとなった。バラの絵が描かれた掛け紙が出来上がり、カステーラ等に使用する(昭和29年から38年まで使用)。このバラの絵の掛け紙は大きな評判を呼ぶ。
後の昭和36年には直筆で激励の手紙を貰うなど、良い関係を築く。
●昭和40年(1965):
三代目荒木一郎が新生「大阪長崎堂」の代表取締役に就任する。
●昭和42年(1967):
大阪市住吉区杉本町に本社工場を新築する。さらに、同44年には鉄筋二階建ての工場を増築する。現在に亘り、長崎堂を支える工場となる。
●昭和45年(1970):
この年、大阪府吹田市で日本初の国際博覧会、大阪万博が開幕。
このビッグイベントへの出店は、再建で出遅れていた長崎堂が大きく飛躍するきっかけとなった。
●昭和57年(1982):
長崎堂ならではの、そして若き日に願った「本物のカステラをつくりたい」という想いのもと、一郎はカステラづくりの原点に立ち返り、商品開発を進める。
試行錯誤を重ね、大正末期のレシピと江戸初期の材料配分を忠実に再現して開発した"復元カステーラ"が出来上がる。
初代源四郎の精神に倣い、手焼きにこだわり材料にこだわった、この"復元カステーラ"は好評を得ることとなり、今では指名買いの最も多い商品となった。長崎堂の看板とも言えるカステラである。
●昭和63年(1988):
昭和26年二代目敏夫が現在地に「本舗 長崎堂」の看板を掲げ、昭和54年にはティーサロンを設けるなど全面改装。そしてこの年11月に4階建ての店舗を 新築落成する。
●平成15年(2003):
四代目の荒木貴史が代表取締役に就任する
●平成22年(2010):
節目となる90周年記念式典を開催する。
長崎堂の「カステーラ」が大阪府より「大阪産(もん)名品」の認定を受ける。後に「カステララスク」も同様に認定を受ける。
●平成26年(2014):
中国・上海City'Super各店に出店。
日本国内のみならず、海外への出店も積極的に行う。
今も変わることのない味と品質を守り続けるお菓子。
そんな『都こんぶ』は1912年(明治45年・大正元年)に京都で生まれた中野正一氏によって生み出されました。
●中野商店は生まれたばかりの『都こんぶ』を販売するためにまず駄菓子の販路に目をつけました。当時は子供相手の駄菓子屋が中心であったからこそ、菓子問屋の立ち並ぶ天王寺や松屋町へ売り込みを開始し、さらに中野正一氏は子供達の娯楽の中心であった人気の紙芝居屋にも目をつけ強力に売り込みを行ったことで、少しずつ『都こんぶ』の名前は全国に知れて行きました。
●「日本全国に広がる国鉄の駅には売店がある。小さい『都こんぶ』やったらおいてもらえるはずや」と考えた中野氏の発想で、サラリーマンのポケットにも女性のハンドバックにも入り、しかも手のひらにすっぽりおさまるサイズを基本に、現在の原型となる、小さな縦型の紙箱に目立つ赤い色に桜の花びらと都の文字の『都こんぶ』が誕生しました。
積極的なCM活動、鉄道共済会(現在のキオスク)での販売が加わり知名度が全国に浸透してきた『都こんぶ』を、どこにでも置いてあるお菓子にしたい。その思いを強固に後押しするために、当時では珍しかったテレビCMやラジオ放送を積極的に活用しました。
CMには当時のお茶の間を賑わしていた林家三平氏(1980故)や、才女で好感度の高いイーデスハンソン氏を起用、テーマソングを用いたCMによる宣伝活動を行いました。
●また、大阪市内の南北の交通手段の要である大阪地下鉄御堂筋線の各駅(新大阪~西田辺)の改札口への 広告を実施。大阪万国博覧会前後という当時最大のイベントと絡み合ったことで『都こんぶ』は知名度を高めてゆきました。
大阪ナンバ駅前のネオンサインなど工夫をこらした宣伝活動の効果もあり、水産庁長賞(昭和40年)・第17回全国菓子大博覧会大臣賞(昭和43年)を受賞した結果、昆布菓子では不動の地位を占めることになりました。
●そして平成9年(1997年)に完成した大阪府貝塚市にある二色浜工場では『都こんぶ』、『おしゃぶり昆布』シリーズが約150人のスタッフの手によって昔ながらの方法で手作りを基本に製造しております。
昭和28年10月 | 初代社長 藤原勝利 岡山市西大寺から自転車一台で来阪「松月堂」創業 |
---|---|
昭和30年 | 日本で2番目に誕生した地下街、ウメダ地下センター(ホワイティうめだ)に出店 |
昭和41年 | 「株式会社 浪速育 松月」設立 |
昭和45年 | 大阪ミナミの虹のまち「難波ウォーク」に出店 ※現在は閉店 |
平成元年 | 本店・改築オープン |
平成5年 | 大阪国際空港(伊丹空港)にて「トラ焼」販売開始 |
平成6年 | 関西国際空港にて「トラ焼」販売開始 ※現在は閉店 |
平成11年 | 中津駅前店オープン ※現在は閉店 |
平成12年 | SHOGETSU福島店(洋菓子)オープン福島店オープンに伴い、ウメ地下店閉店 |
平成20年 | ケーキ&スイーツSHOGETSU 改装オープン |
メディア掲載
大阪土産やっぱり「虎」
えと模様 ふんわり甘く
黄色のスポンジにココアで茶色いしま模様をつけ、トラに見立てた。しま模様は自然な風合いを出すため、一本一本手作業。 スポンジの中には、生クリーム、カスタード、渋皮栗をふんだんにくるんだ。トラの荒々しいイメージとは違い、ほんのりやさしい甘さだ。
とらロール 大阪名物に
販売しているのは大阪市福島区福島の洋菓子店「SHOGETSU(ショウゲツ)」。
とら吉クリームサンド
見た目にもかわいい「とら吉クリームサンド」は、パリパリのもなかにサクサクのクリームがたっぷり。 味は、きなことゴマの2種類。最高級のもち米を使ったもなかは、黄金色に焼きあげている。
その他、meets ,KANSAI1週間、SAVVY等の雑誌にて紹介されました。
昭和元年、初代店主が現在地の石切参道で菓子小売店を創業。
その昔、「かた焼き」は、伊賀忍者の携帯食として親しまれ、初代店主が昭和27年に大阪・四天王寺の菓子店の職人から習い、それをもとに独自の製法、材料、味を作り出しました。
その後、昭和41年に2代目重顕が引継ぎ、平成20年に2代目が体調を崩したことから、「この味を絶やしてはいけない」と長男の嫁である3代目由利が後継者になりました。
「かた焼きは数々あれど、どこにもない布一屋独自の味です」と2代目。一方、3代目は「若い人にも受けるような新しい風味を出せないかと試行錯誤もしています」
メディア掲載
伝統の味を現代に
平安朝初期(延期元年)文道に優れた菅原道真公が、九州の太宰府に左遷されましたが、
その道中、浪花の津に船を泊められ高津村に立ち寄られた際、
なにわの人々が公をお慰めしようと、粟の実を飴で固めた品を献上致しました。
道真公は大層お喜びになって御賞味され、道中のお土産にもされたのが、
<おこし>の始まりとされています。
以来、「大阪のおみやげ」として粟おこしが重宝がられるようになりました。
江戸時代(宝暦年間)に当店初代が、御池橋東詰南に店舗を構え、
「天狗の岩おこし」と称して創業致しました。
親しみやすい名称と、自然の風味豊かで変わらぬ味わいは、
浪花の名物として古くからご好評をいただいております。
ソフトでまろやかなおこし、甘さをひかえたヘルシーなおこし、極上の薄板おこしなど、
御贈答・おみやげ品として各種とりそろえております。
今後とも、全国菓子品評会・名誉総裁賞受賞の「天狗おこし」を、
お引き立て下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。
あ
か
さ
た
な
は
ま
や
ら
わ