大阪産(もん)名品の会


大阪産(もん)名品の会

大阪産(もん)事業者の歴史


株式会社 タニチ

わが社は昭和27年(1952年)に東大阪市にて谷知商店として創業設立しました。
昭和51年(1976年)に大阪府高槻市に移転し、寒天を主に時代に合わせて様々な商品を揃え、お客様のご要望に応えるよう努力を続けて参りました。


 

今や寒天はお菓子の原料だけでなく食品としての注目度が上がっており、この食物繊維が豊富な寒天を知って頂きたいと日々努力させていただいております。
また、高槻市の伝統産業である寒天の製造、販売を営みながら地元高槻市にとっても少しでも役立つ企業になりたいと願っております。

 
 
 
1952年02月 東大阪市(旧布施市)にて谷知商店創業
1952年04月 清水寒天代理店契約を結ぶ
1959年10月 法人に改組、資本金2,000,000円にて㈱谷知庸光商店と改称
        代表取締役社長 谷知佐一 就任
1961年03月 資本金4,000,000円に増資
1967年03月 取締役会長 谷知佐一 就任
        代表取締役社長 川畑誠一 就任
        資本金10,000,000円に増資 "株式会社タニチ"に社名変更
1968年05月 三井物産㈱関西支社と特約店契約を結ぶ
1973年07月 伊那食品工業㈱と特約店契約を結ぶ
1976年03月 本社移転 高槻市下田部町1丁目27番3号
1983年06月 協同乳業㈱売買契約を結ぶ
1985年04月 全国漁業協同組合連合会売買契約を結ぶ(入札権取得)
1986年12月 田能天然寒天製造工場 開設
1990年12月 配送センター開設(敷地200坪/倉庫100坪)
1992年01月 取締役会長 川畑誠一 就任
        代表取締役社長 川畑孝彦 就任
1995年03月 本社新設
1998年06月 大阪府高槻市大字田能ウシロ田18に工場・配送センターを移転。
2006年09月 高槻市民の方々に「寒天」を知ってもらおうと高槻寒天プロジェクトを立ち上げる
2013年07月 代表取締役社長 川畑哲朗 就任
        取締役専務 新宮康資 就任
2014年05月 本社内にて「かんてんや半兵衛」をオープン

本舗 辻八

 泉州で親しまれて百六十年。漁師町でにぎわっていた遠い昔の町衆や紀州街道を行き交う旅人たちに親しまれてきた「辻八」の和菓子は、創業160年の歴史と味を守り続け、いまもなお地元で愛され続けています。

 

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当店の「和泉叢雨」は本市内で最も古くから製造しており、地元でとれたお米をはじめ、良質な素材のみ厳選し、着色料・添加物・防腐剤を 一切使用せず自然の素材をできる限りそのまま加工しています。小豆を一粒一粒ていねいにしぶをとりながら洗浄する等、 すべて手作りの作業でおこないます。そのため量産できませんが、そのぶん新鮮なままお客様のもとにお届けしています。

 


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◆◆ご進物用に箱入りもご用意しております◆◆
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メディア掲載


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●食べ歩き大阪

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「叢雨」というお菓子をご存じでしょうか。小豆特有の風味を生かし、砂糖、餅粉、上新粉などを合わせ蒸し上げた、泉州独特の生菓子だ。辻八は現在5代目、商うものは和泉叢雨 のみ。
(以下略)

 

 

●まっぷる

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和泉叢雨ひとすじに5代目、旧紀州街道からひと筋海よりの小さな通り、ひっそりとたたずむ老舗。「叢雨」という和菓子は泉州独特のものである。小豆の風味を生かし、砂糖、 餅粉、上新粉などを合わせ蒸し上げる。(以下略)


 

 

●旅の手帳

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創業160年。伝統とこだわりの味「和泉叢雨」 厳選された自然素材を生かした手作りの味わいが好評。口の中でとろけるような食感は正に絶品。(以下略)


●辻八の詳しい紹介はこちら


株式会社 つぼ市製茶本舗



嘉永三年
創業

嘉永三年(1850年)、谷本市兵衛がつぼ市の屋号のもとに泉州堺に茶の貿易と茶問屋を創業いたしました。往時、堺は中世より栄えた商業、貿易の都市形態から工業都市への変革がはじまりつつある黎明期でありました。





明治の初めには、堺商工会議所が設立されその創立当初の社員として、谷本市治良(市兵衛)の名が堺商工会議所100年史の中に見てとれ、すでに大きな商いを行なっていたことがうかがわれます。





戦後
焼け跡からの再興

昭和に入り戦渦のなか、空襲により堺の旧市街は灰燼に帰し、自慢の堺造りと呼ばれた三棟の土蔵を持つ大きな商家も焼け落ちてしまいます。戦後、唯一焼け残った屋号の看板を胸に市治良はつぼ市の再興を誓います。昭和20年9月、戦争の傷跡も生々しく残る堺の街を後にし、本社を高石市に移転、操業を再開いたしました。





高度経済成長期
烏龍茶ブームの走り

時代を経て昭和45年、わが国は高度経済成長期に入りました。 この頃、茶の消費が急激に伸び、国内の消費に需要が追いつかず、四代目当主の谷本陽蔵は台湾茶の輸入に踏みきります。このことが日本における烏龍茶ブームの走りとなりました。 その後も陽蔵は福建、台湾を度々訪れ中国茶の研究を続けました。後に「中国茶の魅力」(柴田書店)や「お茶のある暮らし」(草思社)等の書物を著し、お茶の普及と啓蒙に力を注ぎ80歳を越えた現在でも、ラジオ番組(朝日放送)、お茶の講演活動を通してお茶の魅力を伝え続けています。





平成18年
伝統に築く最新技術

平成18年には、五代目谷本順一が、高まる食の安全性に対応する為、業界トップクラスの最新設備の工場(つぼ市第二工場)を建設。良質で安全、衛生的な製品づくりをめざし、ISO9001 認証、有機JAS認証も取得いたしました。





平成23年
200年企業へ

平成23年5月に業界初で大阪版食の安全安心認証を取得いたしました。そして、つぼ市は創業して160年以上を迎えこれは偏に、長年に渡る皆様方のご愛顧によるものと深く感謝いたしております。 これからもつぼ市は、ほんもののお茶づくりでお客様にやすらぎ、和、感動を提供しつつ200年企業をめざします。




株式会社 釣鐘屋本舗

創業明治三十三年 静かに響く釣鐘の音色・・・。

 


 


593年、聖徳太子によって建立されたと云われる日本最古の宮寺、四天王寺。 
この四天王寺を中心になにわの町は活気を増し、文化や生活が発展しました。 
明治33年(1900年)、地元の有志から四天王寺に大梵鐘が奉納され、大阪商人の心意気を示す快挙として評判になりました。

 


 


その奉納記念として、釣鐘のかたちを模した饅頭を、四天王寺の門前で売り出したのが「釣鐘まんじゅう」のはじまり。四天王寺参拝のお土産として、大阪名物として、人々に喜ばれるなにわの銘菓となりました。さて、残念ながら四天王寺の釣鐘は、第二次世界大戦の際に供出されてしまいましたが、変わらぬその姿と味を今に伝える釣鐘まんじゅうは、なにわの人々に愛され続けています。

 


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ひと口ごとに広がる、懐かしい思い出。 

 


 


なにわのシンボル、通天閣。現在あるのは実は昭和31年に建て直された2代目です。明治生まれの初代は、当時としては東洋一の高さを誇り、卓抜なもの、ひとを驚かせたり楽しませることが好きななにわ人の気性に合う、まさに「シンボル」でした。 

 


 


時は移って昭和のはじめ。バナナが出回り始めました。けれど、当時のバナナは庶民の手の届かない高級果物。そこで、バナナを食べたい庶民の願いを思い、考案したのがさいしょのバナナ『名代芭蕉』です。 かたちはもちろん風味にまでこだわった、ユニークで遊び心あふれる『名代芭蕉』は、当時の人々に大いに可愛がられ、今もなにわの名物として重宝されています。

 


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株式会社 長﨑堂

●大正8年(1919):
前年の7月、荒木源四郎は長く務めた三菱長崎造船所を定年退職。
51歳にして、出島の一角長崎市千馬町に菓子店「扇正軒」を創業。カステラづくりに精を出す。

●大正13年(1924):
経済恐慌により手がけた事業を失った源四郎は、長崎を後にし、唯一残ったカステラ業で再起を図るため大阪へ。
大阪市東区大手通(現中央区大手通)に格好の家を見つけ「合資会社長崎堂」を起ち上げる。

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●昭和9年(1934):
缶詰カステーラの発明特許を取得。カステラの日持ちを良くすることに成功する。 発明の名称は「長期保存に耐えられるカステーラ類の製造方法」であった。
商品特性を活かし、満州・南洋群島・東南アジアに缶詰カステーラを送り好評を博す。
研究熱心であった源四郎の姿が、この商品からもうかがえる。

●昭和17年(1942):
太平洋戦争の激化による経済統制により、操業を一時中断せざるを得なくなる。

●昭和18年(1943):
天神橋南詰めの店舗は引き払い、源四郎は名古屋へ。それにより経営は二代目敏夫に継承される。

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●昭和26年(1951):
周防町(現中央区心斎橋2-1-29)現在の本店の場所に「本舗 長崎堂」の看板を揚げる。

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●昭和29年(1954):
会社組織を改め、本社を周防町(現本社)に置く。
このころ一郎の学友の父を通して、作家武者小路実篤と親交が深まり、包装紙のデザインを依頼することとなった。バラの絵が描かれた掛け紙が出来上がり、カステーラ等に使用する(昭和29年から38年まで使用)。このバラの絵の掛け紙は大きな評判を呼ぶ。
後の昭和36年には直筆で激励の手紙を貰うなど、良い関係を築く。

●昭和40年(1965):
三代目荒木一郎が新生「大阪長崎堂」の代表取締役に就任する。

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●昭和42年(1967):
大阪市住吉区杉本町に本社工場を新築する。さらに、同44年には鉄筋二階建ての工場を増築する。現在に亘り、長崎堂を支える工場となる。

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●昭和45年(1970):
この年、大阪府吹田市で日本初の国際博覧会、大阪万博が開幕。
このビッグイベントへの出店は、再建で出遅れていた長崎堂が大きく飛躍するきっかけとなった。

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●昭和57年(1982):
長崎堂ならではの、そして若き日に願った「本物のカステラをつくりたい」という想いのもと、一郎はカステラづくりの原点に立ち返り、商品開発を進める。
試行錯誤を重ね、大正末期のレシピと江戸初期の材料配分を忠実に再現して開発した"復元カステーラ"が出来上がる。
初代源四郎の精神に倣い、手焼きにこだわり材料にこだわった、この"復元カステーラ"は好評を得ることとなり、今では指名買いの最も多い商品となった。長崎堂の看板とも言えるカステラである。

●昭和63年(1988):
昭和26年二代目敏夫が現在地に「本舗 長崎堂」の看板を掲げ、昭和54年にはティーサロンを設けるなど全面改装。そしてこの年11月に4階建ての店舗を 新築落成する。

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●平成15年(2003):
四代目の荒木貴史が代表取締役に就任する

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●平成22年(2010):
節目となる90周年記念式典を開催する。
長崎堂の「カステーラ」が大阪府より「大阪産(もん)名品」の認定を受ける。後に「カステララスク」も同様に認定を受ける。

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●平成26年(2014):
中国・上海City'Super各店に出店。
日本国内のみならず、海外への出店も積極的に行う。

※ 詳細はこちらへ ⇒ http://www.nagasakido.com/history/