大阪産(もん)名品の会


大阪産(もん)名品の会

大阪産(もん)事業者の歴史


米忠味噌本店

当店は延享2年(1745年)、加賀藩の両替商であった能登屋仁左エ門が金沢より大阪へ出、宝暦年間(1750年代)より西船場・江戸堀で米屋を開いたのがはじまりです。本業のかたわら米麹の製造も手がけ、さらに近隣の武家屋敷での味噌仕込みのお手伝いをするようになりました。

 


この味噌が大変おいしいと評判を呼び、ついに文政3年(1820年)初代忠助が味噌の醸造販売を専業にすることとなりました。
この時「米屋の忠助」より屋号を「米忠」としたのです。

江戸時代中頃まで味噌は各家庭で造るものでしたが、当時は都市文化の円熟にともなって専門の味噌屋が造る味噌への移行期にあたり、米忠は食い倒れ大阪の味として多くのご家庭や料理人からご愛用いただくようになりました。


 


特製赤味噌化粧箱入
明治に入り、八丁味噌に代表される東海地方の豆味噌が紹介されると、それまで料亭の赤だしに使用していた長期醗酵の米味噌(特製赤味噌)に豆味噌を調合し、コクの強い現在の赤だし味噌が完成します。



 


戦時中の統制による休止期をはさみ、戦後製造を再開すると阪神地域の百貨店各店に進出して販売網を拡大。昭和50年には工場を新築して技術の向上に努め、よりお雑煮にふさわしい味噌「もち米入り白味噌」(昭和61年新発売)に結実しました。

フレンチレシピ

 


フレンチレシピ
21世紀に入ってからは従来主要な用途であった味噌汁・和食に限らない新たな味噌のあり方を模索。即席味噌汁や味噌スイーツ、味噌を使ったフレンチレシピなどの開発に取り組んでおります。



 


「即席味噌汁《特赤・淡醸》」グッドデザイン賞
このうち「即席味噌汁《特赤・淡醸》」は平成25年に味噌として初めてのグッドデザイン賞を受賞いたしました。

 


日本人の食文化が移ろいゆくなかで、変わらないものを支えつつ、新たなものを提案していきたい。それが米忠の思いです。

 

 

延享2年~宝暦 能登屋仁左エ門が大坂江戸堀の地にて米問屋を営む
文政3年 味噌屋専業となる
大正6年 製造部門を東成郡鯰江村(現・大阪市城東区)へ移転
大正10年 宮内省の御用を賜る。また、軍への納入を行う
昭和12年 江戸堀本店を現在の場所へ移転
昭和17年 統制により米忠味噌としての製造を休止(組合として製造)
昭和26年 米忠味噌としての製造を再開
昭和27年 阪神百貨店(梅田本店)へ出店
昭和30年 近鉄百貨店(阿倍野本店)へ出店
昭和32年 三越大阪店(北浜)へ出店
昭和39年 そごう神戸店へ出店
昭和40年 そごう心斎橋本店へ出店
昭和41年 製造部門を独立させ、米忠味噌(株)設立
昭和50年 現在の工場を新築
昭和61年 「もち米入り白味噌」発売
平成10年 「茄子もろみ」発売
平成12年 「賑わい漬」発売
平成17年 フリーズドライ式即席味噌汁を発売
三越大阪店(北浜)閉店により撤退
平成19年 そごうでの販売を直販から納品に変更
平成22年 「柚味噌羊羹」発売(大阪の駿河屋さん製造)
「味噌ショコラ」発売(赤味噌・白味噌・柚味噌:Ek Chuahさん製造)
平成25年 「即席味噌汁《特赤・淡醸》」新パッケージ版がグッドデザイン賞を受賞
平成26年 京阪百貨店での取扱開始

 

 

受賞

・2013年 グッドデザイン賞 こちら

 

●米忠味噌本店の詳しい紹介はこちら


小山梅花堂

天保十年(1839年)創業

岸和田(泉州)紀州街道沿いで創業し現在で180年余

 

 

初代当主は板屋藤兵衛
板屋藤兵衛は当時の屋号にもなっており、
年配の方の中には昔からの名残で「板藤さん」(板屋藤兵衛の略)と呼ぶ人もいます。

 

岸和田城主岡部家に様々な菓子を献上しており、梅花むらさめの他にも季節ごとの上生菓子なども献上している。中でも梅花むらさめとこなしとよばれる菓子、こしあんのまんじゅうなどは特に好んで食べられていたと伝えられています。

梅花むらさめ 「梅花むらさめ」

 

小豆あんと米粉と砂糖を混ぜ合わせて裏ごしをかけそろぼにした後、蒸し上げます。冬の初めにみられる降ってはさっと上り、やんではまた降る雨のようなさまがこのお菓子の銘となりました。散りばめた小豆は梅を見立てています。


 

小山梅花堂本店

 

小山梅花堂本店

 

 

■メディア掲載

昭和期を代表する詩人 中村汀女が著した「伝統の銘菓句集」の中に「梅花むらさめ」
が出てきます。
来店された多くのお客様が手にされ擦り切れていますが大切に保管されています。

梅花むらさめ koyamabaikadou_history_4.jpg
初冬にかけて見られる、激しく降ってはさっと上がり、やんではまた降る雨をむらさめといいます。 この美しい言葉を銘にしたのが"梅花むらさめ"。 この菓子は、小豆あんとみじん粉と砂糖を混ぜ合わせ、あらい裏ごしいかけてそぼろにし、箱に入れて蒸し上げた竿ものです。

 

梅花むらさめ だんじりという勇壮なお祭りで有名な岸和田で170年以上の伝統を持つ「小山梅花堂」。
岸和田藩主への献上菓子だった「梅花むらさめ」は、小豆あんと米粉を蒸し、そぼろにしたさお状の生菓子で、梅の花に見立てた小豆が散っています。黒文字を入れると、ほろほろっとくずれそうな優しい感じで、小豆の香りが生きたほのかな甘み。お抹茶と一緒にいただきたい上品なお菓子ですね。


 

梅花むらさめ ほろほろと崩れる心地のいい口溶けの梅花むらさめ。
岸和田で1839年に創業の老舗「小山梅花堂」の代表銘菓で、岸和田藩主にも献上されていたという献上菓子だ。生地は小豆餡と米の粉を蒸したもの。創業以来、変わらぬ味を守ろうと現在でもひとつひとつ手作りされている。素朴ながらほどよい甘さと上品な味わい。好みのサイズに切り分けて頂くが、軽い食感も手伝ってたくさん頂きたくなってしまう。


 

梅花むらさめ だんじりで有名な岸和田の名物で、小豆あんと米粉を蒸し、そぼろにした棹状の生菓子。梅の花に見立てた小豆が散らされている。口の中でほろっとくずれるやさしい食感、小豆の香りを生かすほのかな甘みに品の良さを感じる。


 






株式会社 末廣堂

元禄年間、時の堺奉行所の代官、水野伊予守が薩摩から種芋を取り寄せ、半田山(現在の堺東山)で始めて栽培し、その後、松屋新田から今の難波、木津、住吉新田あたりで作られ、当時から浪華の人達の最も参詣が多かった住吉大社の門前町の店々で、蒸し芋として売り出され、愛好されるようになりました。(当時はさつま芋の事を産地の名をとって「半田山」といったそうです。)

 


しかしその後、明治から大正と時代が移り変わるにつれ、交通運輸が盛んになり、地方から品種改良された美味な甘藷が続々入荷され、昔から珍重された住吉の蒸し芋は、昭和十年頃にはその影をひそめてしまいました。明治初年に創造された父祖伝承の「さつま焼」は、その昔、住吉物産であった"さつま芋"に形どった、往時の住吉いもの名残りをとどめた野趣と雅味を兼ねそなえた銘菓であります。



 


 


 



 


末廣堂の歴史

 


■明治四十四年八月十三日

 内国共産品博覧会において一等賞金牌受賞

 


■大正十一年三月三十日

 貞明皇后 住吉大社御参拝の砌 献上の栄
 

 


■大正十四年五月五日

 秩父宮殿下 住吉大社御参拝の砌 献上の栄
 

 


■大正十五年三月二十五日

 澄宮殿下 住吉大社御参拝の砌 献上の栄
 

 


■大正十五年四月十五日

 閑院宮殿下 住吉大社御参拝の砌 献上の栄
 

 


■大正十五年六月七日

 久邇宮同妃両殿下 住吉大社御参拝の砌 献上の栄
 

 


■昭和十二年二月二十六日

 秩父宮同妃両殿下 住吉大社御参拝の砌 献上の栄
 

 


■昭和十六年四月十三日

 久邇宮大妃殿下 住吉大社御参拝の砌 献上の栄
 

 


■昭和二十八年五月十六日

 義宮殿下 住吉大社御参拝の砌 献上の栄
 

 


■昭和三十二年九月二十日

 三笠宮同妃両殿下 桃山学院新築落成式典御台臨の砌 献上の栄
 

 


■昭和四十五年七月二十三日

 昭和天皇皇太后陛下 住吉大社御参拝の砌 献上の栄
 

 


■昭和四十七年五月二十三日

 高松宮同妃殿下 住吉大社御参拝の砌 献上の栄
 

 


■昭和五十二年十一月十一日

 礼宮殿下 住吉大社御参拝の砌 献上の栄
 

 


■昭和六十年九月二十五日

 伊勢神宮祭主鷹司和子様 住吉大社御参拝の砌 献上の栄

 



 


末廣堂の歴史

 



 

 

●末廣堂の詳しい紹介はこちら


株式会社 小島屋

いにしえの堺の町は南蛮貿易が栄え、海外から珍しい産物がここを通ってわが国へ紹介された例も多く、『けしの実』もそのひとつで室町時代インドからもたらされたと言われ、堺近郊で盛んに栽培されておりました。
安土桃山時代に移り、千利休によって広められた茶の湯の習慣は堺の地で多くの和菓子を生み出し、そのひとつにケシの香味を生かして考案されたのが『けし餅』です。けし餅は進物用や土産物として昔から親しまれてきました。
そして近年新たな取り組みとして、この味を若い人にも知ってもらおうと『けし餅ロール』を開発いたしました。
おかげさまで発売当初から品切れが続くほど多くの方から支持される商品となりました。
今後も昔ながらの味を守りながら、お客様に親しまれ、懐かしんでいただける堺の銘菓として歩み続けてまいります。

受賞

大正8年以降 全国菓子品評会において毎年各種賞、牌受賞多数。
昭和2年 貞明皇太后陛下御嘉納はじめ各御皇室お買上げ。
昭和4年 7年 昭和天皇陛下の天覧ならびにお買上げ。
昭和45年 日本万国博覧会記念全国菓子品評会おいて万博会長賞受賞。
昭和63年 食品衛生優良施設、厚生大臣表彰受賞。
平成20年 日本経済新聞、日経プラスワンランキングに掲載。全国7位

 

 

●小島屋の詳しい紹介はこちら


株式会社 小鯛雀鮨鮨萬



◆おおさかすしとすし萬
承応二年(1653)創業
鮨萬(すし萬)は、承応二年(1653)に創業いたしました。 正確にはその頃魚の棚(現在横堀二丁目付近)で魚屋渡世をし、副業に雀鮨を作っておりましたが 天明元年(1781)の頃、京都の宮廷へ献じるにあたり西宮沖の小鯛の二才物を用いて雀鮨を作りましたところ評判を得ましたため、 雀鮨専門となりことさらに総本家小鯛雀鮨と称しました。 おそらく義太夫で名高い吉野(奈良県)の釣瓶鮓と共に、すし業のはしりではないかと思われます。





初代河内屋長兵衛より十五代・三百六十年の間に禁裏御鮨師を世襲し、 明治元年・五年には津村別院(北御堂)で明治天皇の御用命を蒙り、 御膳所御用御包丁人の看板が下されております。





昭和十七年戦争による一時的な休業はございましたが、 昭和二十五年四月組織を法人に改め関西圏以外の土地でも すし萬のおすしを広く皆々様に食して頂けるようになりました。
 
最近でも三笠宮 秋篠宮家はじめ宮内庁の御下命をいただき今日に至ります。





◆皆様に愛される「すし萬のおすし」へ

戦争が終わり、高度成長期へ。
デパートでお鮨が食べられる時代になる中、大阪のデパートですしの販売をはじめたのもすし萬が関西初となります。 昭和五十八年には株式会社小鯛雀鮨鮨萬と組織改編を行い、平成二十六年、現十六代萬助・小倉康宏が家業を継承しました。創業から現在まで関西はもとより東京・名古屋と多くの店舗出店を行い、大阪すしとすし萬の味を広めてまいりました。
 
これからも、伝統を守りながら新しいものを取り入れ、 皆様に愛される「すし萬のおすし」をお届けいたします。