当店は延享2年(1745年)、加賀藩の両替商であった能登屋仁左エ門が金沢より大阪へ出、宝暦年間(1750年代)より西船場・江戸堀で米屋を開いたのがはじまりです。本業のかたわら米麹の製造も手がけ、さらに近隣の武家屋敷での味噌仕込みのお手伝いをするようになりました。
延享2年~宝暦 | 能登屋仁左エ門が大坂江戸堀の地にて米問屋を営む |
文政3年 | 味噌屋専業となる |
大正6年 | 製造部門を東成郡鯰江村(現・大阪市城東区)へ移転 |
大正10年 | 宮内省の御用を賜る。また、軍への納入を行う |
昭和12年 | 江戸堀本店を現在の場所へ移転 |
昭和17年 | 統制により米忠味噌としての製造を休止(組合として製造) |
昭和26年 | 米忠味噌としての製造を再開 |
昭和27年 | 阪神百貨店(梅田本店)へ出店 |
昭和30年 | 近鉄百貨店(阿倍野本店)へ出店 |
昭和32年 | 三越大阪店(北浜)へ出店 |
昭和39年 | そごう神戸店へ出店 |
昭和40年 | そごう心斎橋本店へ出店 |
昭和41年 | 製造部門を独立させ、米忠味噌(株)設立 |
昭和50年 | 現在の工場を新築 |
昭和61年 | 「もち米入り白味噌」発売 |
平成10年 | 「茄子もろみ」発売 |
平成12年 | 「賑わい漬」発売 |
平成17年 | フリーズドライ式即席味噌汁を発売 三越大阪店(北浜)閉店により撤退 |
平成19年 | そごうでの販売を直販から納品に変更 |
平成22年 | 「柚味噌羊羹」発売(大阪の駿河屋さん製造) 「味噌ショコラ」発売(赤味噌・白味噌・柚味噌:Ek Chuahさん製造) |
平成25年 | 「即席味噌汁《特赤・淡醸》」新パッケージ版がグッドデザイン賞を受賞 |
平成26年 | 京阪百貨店での取扱開始 |
受賞
天保十年(1839年)創業
岸和田(泉州)紀州街道沿いで創業し現在で180年余
初代当主は板屋藤兵衛
板屋藤兵衛は当時の屋号にもなっており、
年配の方の中には昔からの名残で「板藤さん」(板屋藤兵衛の略)と呼ぶ人もいます。
岸和田城主岡部家に様々な菓子を献上しており、梅花むらさめの他にも季節ごとの上生菓子なども献上している。中でも梅花むらさめとこなしとよばれる菓子、こしあんのまんじゅうなどは特に好んで食べられていたと伝えられています。
「梅花むらさめ」
小豆あんと米粉と砂糖を混ぜ合わせて裏ごしをかけそろぼにした後、蒸し上げます。冬の初めにみられる降ってはさっと上り、やんではまた降る雨のようなさまがこのお菓子の銘となりました。散りばめた小豆は梅を見立てています。
■メディア掲載
昭和期を代表する詩人 中村汀女が著した「伝統の銘菓句集」の中に「梅花むらさめ」
が出てきます。
来店された多くのお客様が手にされ擦り切れていますが大切に保管されています。
初冬にかけて見られる、激しく降ってはさっと上がり、やんではまた降る雨をむらさめといいます。
この美しい言葉を銘にしたのが"梅花むらさめ"。
この菓子は、小豆あんとみじん粉と砂糖を混ぜ合わせ、あらい裏ごしいかけてそぼろにし、箱に入れて蒸し上げた竿ものです。
だんじりという勇壮なお祭りで有名な岸和田で170年以上の伝統を持つ「小山梅花堂」。
岸和田藩主への献上菓子だった「梅花むらさめ」は、小豆あんと米粉を蒸し、そぼろにしたさお状の生菓子で、梅の花に見立てた小豆が散っています。黒文字を入れると、ほろほろっとくずれそうな優しい感じで、小豆の香りが生きたほのかな甘み。お抹茶と一緒にいただきたい上品なお菓子ですね。
ほろほろと崩れる心地のいい口溶けの梅花むらさめ。
岸和田で1839年に創業の老舗「小山梅花堂」の代表銘菓で、岸和田藩主にも献上されていたという献上菓子だ。生地は小豆餡と米の粉を蒸したもの。創業以来、変わらぬ味を守ろうと現在でもひとつひとつ手作りされている。素朴ながらほどよい甘さと上品な味わい。好みのサイズに切り分けて頂くが、軽い食感も手伝ってたくさん頂きたくなってしまう。
だんじりで有名な岸和田の名物で、小豆あんと米粉を蒸し、そぼろにした棹状の生菓子。梅の花に見立てた小豆が散らされている。口の中でほろっとくずれるやさしい食感、小豆の香りを生かすほのかな甘みに品の良さを感じる。
元禄年間、時の堺奉行所の代官、水野伊予守が薩摩から種芋を取り寄せ、半田山(現在の堺東山)で始めて栽培し、その後、松屋新田から今の難波、木津、住吉新田あたりで作られ、当時から浪華の人達の最も参詣が多かった住吉大社の門前町の店々で、蒸し芋として売り出され、愛好されるようになりました。(当時はさつま芋の事を産地の名をとって「半田山」といったそうです。)
いにしえの堺の町は南蛮貿易が栄え、海外から珍しい産物がここを通ってわが国へ紹介された例も多く、『けしの実』もそのひとつで室町時代インドからもたらされたと言われ、堺近郊で盛んに栽培されておりました。
安土桃山時代に移り、千利休によって広められた茶の湯の習慣は堺の地で多くの和菓子を生み出し、そのひとつにケシの香味を生かして考案されたのが『けし餅』です。けし餅は進物用や土産物として昔から親しまれてきました。
そして近年新たな取り組みとして、この味を若い人にも知ってもらおうと『けし餅ロール』を開発いたしました。
おかげさまで発売当初から品切れが続くほど多くの方から支持される商品となりました。
今後も昔ながらの味を守りながら、お客様に親しまれ、懐かしんでいただける堺の銘菓として歩み続けてまいります。
受賞
大正8年以降 全国菓子品評会において毎年各種賞、牌受賞多数。
昭和2年 貞明皇太后陛下御嘉納はじめ各御皇室お買上げ。
昭和4年 7年 昭和天皇陛下の天覧ならびにお買上げ。
昭和45年 日本万国博覧会記念全国菓子品評会おいて万博会長賞受賞。
昭和63年 食品衛生優良施設、厚生大臣表彰受賞。
平成20年 日本経済新聞、日経プラスワンランキングに掲載。全国7位
◆おおさかすしとすし萬
承応二年(1653)創業 鮨萬(すし萬)は、承応二年(1653)に創業いたしました。 正確にはその頃魚の棚(現在横堀二丁目付近)で魚屋渡世をし、副業に雀鮨を作っておりましたが 天明元年(1781)の頃、京都の宮廷へ献じるにあたり西宮沖の小鯛の二才物を用いて雀鮨を作りましたところ評判を得ましたため、 雀鮨専門となりことさらに総本家小鯛雀鮨と称しました。 おそらく義太夫で名高い吉野(奈良県)の釣瓶鮓と共に、すし業のはしりではないかと思われます。 |
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初代河内屋長兵衛より十五代・三百六十年の間に禁裏御鮨師を世襲し、 明治元年・五年には津村別院(北御堂)で明治天皇の御用命を蒙り、 御膳所御用御包丁人の看板が下されております。
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昭和十七年戦争による一時的な休業はございましたが、 昭和二十五年四月組織を法人に改め関西圏以外の土地でも すし萬のおすしを広く皆々様に食して頂けるようになりました。
最近でも三笠宮 秋篠宮家はじめ宮内庁の御下命をいただき今日に至ります。 |
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◆皆様に愛される「すし萬のおすし」へ
戦争が終わり、高度成長期へ。 デパートでお鮨が食べられる時代になる中、大阪のデパートですしの販売をはじめたのもすし萬が関西初となります。 昭和五十八年には株式会社小鯛雀鮨鮨萬と組織改編を行い、平成二十六年、現十六代萬助・小倉康宏が家業を継承しました。創業から現在まで関西はもとより東京・名古屋と多くの店舗出店を行い、大阪すしとすし萬の味を広めてまいりました。 これからも、伝統を守りながら新しいものを取り入れ、 皆様に愛される「すし萬のおすし」をお届けいたします。 |
あ
か
さ
た
な
は
ま
や
ら
わ