大阪産(もん)名品の会


大阪産(もん)名品の会

大阪産(もん)事業者の歴史


田代珈琲 株式会社

tashiro_history_0.jpg

 

 

●創業時の奮闘

昭和8年2月、田代珈琲は「田代兄弟商会」として戦前にシロップの製造業を起業しました。創業者は田代 辰(たしろ のぼる)。 当時、銭湯や駄菓子屋や売られていたミカン水などの清涼飲料水を製造する「鉱泉所」というところが地域ごとに存在しており、そこにシロップを卸していました。そのシロップの味付けとしてコーヒーを加えてコーヒー牛乳の素を作ることになったことを契機に、その後は株式会社 房屋商店として改組し、コーヒーの製造も手掛けることになります。 戦前には大きく売り上げが上がり、地域の自治会や軍にも沢山の寄付を行い、数々の表彰を受けていましたが、戦争が本格化した時には会社を閉鎖、財産を抱えて香川県・観音寺に疎開することになりました。しかし、敗戦でその財産も紙切れとなります。 昭和23年の戦後、再び大阪の地でコーヒー会社を興すことになりました。戦後の会社経営は前途多難が予想されましたが、戦前の人脈から紅茶の輸入販売権を獲得し商売を大きく発展させていきます。しかし、すぐさま紅茶の輸入販売権も自由化され会社の勢いも失速することに...。その変わりにコーヒーの販売業は喫茶店、レストランなどでコーヒーが広く飲まれるようになり、昭和30年代になるとコーヒーの売り上げが大きく伸びてきました。 tashiro_history_1.jpg

 

 

●復活と挫折の繰り返し

そんな最中、昭和41年に初代 田代 辰 は死去し、2代目田代好埈(よしたか)が25歳で継ぐことになりました。 この時代から「喫茶店ブーム」が沸き起こります。ブームのおかげで1978年頃までお得意先が増え続けましたが、 1973年のオイルショック、1975年のブラジル大霜害で価格が暴騰したりと経営環境が平穏であったとはいえず、2代目も経営のかじ取りには苦労したようです。1978年頃からはお得意先は減り続け、卸業から小売業へ、本社移転を機に業態転換をはかったのは1985年のことでした。 1985年を契機に本社を現在の東大阪市に移転し、家庭用の小売販売にも力を注ぎだしました。その頃、世はバブルに突入し、景気の良さから業績もアップ。小売業も早くに力を入れてDMを中心に地方発送も積極的に行いました。 tashiro_history_1.jpg

 

 

●新しい時代のコーヒーを模索

しかし90年代にバブルは崩壊し、業績は悪化。迎えた1994年、2代目好埈が死去。3代目社長には長男 和弘が就任しました。 その後、多店舗展開を目指し1998年には4号店を開店させ、再び業績を伸ばしましたが、しかし、売り上げの伸びは止まり、多店舗での焙煎から豆の鮮度を保ったまま販売することに限界があり、方向性を模索する毎日が続きました。そこで1999年には社長の発案から、パソコンをまったく触ったことのないこの田代珈琲が、ネット事業を目指すことになります。 ホームページは2000年に完成しましたが、当初売り上げは作れず、試行錯誤の末モール出店などを契機に、コーヒーの販売業は少しずつ伸びてきていました。 同時にスペシャルティコーヒーという高品質のコーヒーとの出会いが、田代珈琲を大きく変えていくことになりました。 tashiro_history_1.jpg


株式会社 タニチ

わが社は昭和27年(1952年)に東大阪市にて谷知商店として創業設立しました。
昭和51年(1976年)に大阪府高槻市に移転し、寒天を主に時代に合わせて様々な商品を揃え、お客様のご要望に応えるよう努力を続けて参りました。


 

今や寒天はお菓子の原料だけでなく食品としての注目度が上がっており、この食物繊維が豊富な寒天を知って頂きたいと日々努力させていただいております。
また、高槻市の伝統産業である寒天の製造、販売を営みながら地元高槻市にとっても少しでも役立つ企業になりたいと願っております。

 
 
 
1952年02月 東大阪市(旧布施市)にて谷知商店創業
1952年04月 清水寒天代理店契約を結ぶ
1959年10月 法人に改組、資本金2,000,000円にて㈱谷知庸光商店と改称
        代表取締役社長 谷知佐一 就任
1961年03月 資本金4,000,000円に増資
1967年03月 取締役会長 谷知佐一 就任
        代表取締役社長 川畑誠一 就任
        資本金10,000,000円に増資 "株式会社タニチ"に社名変更
1968年05月 三井物産㈱関西支社と特約店契約を結ぶ
1973年07月 伊那食品工業㈱と特約店契約を結ぶ
1976年03月 本社移転 高槻市下田部町1丁目27番3号
1983年06月 協同乳業㈱売買契約を結ぶ
1985年04月 全国漁業協同組合連合会売買契約を結ぶ(入札権取得)
1986年12月 田能天然寒天製造工場 開設
1990年12月 配送センター開設(敷地200坪/倉庫100坪)
1992年01月 取締役会長 川畑誠一 就任
        代表取締役社長 川畑孝彦 就任
1995年03月 本社新設
1998年06月 大阪府高槻市大字田能ウシロ田18に工場・配送センターを移転。
2006年09月 高槻市民の方々に「寒天」を知ってもらおうと高槻寒天プロジェクトを立ち上げる
2013年07月 代表取締役社長 川畑哲朗 就任
        取締役専務 新宮康資 就任
2014年05月 本社内にて「かんてんや半兵衛」をオープン

本舗 辻八

 泉州で親しまれて百六十年。漁師町でにぎわっていた遠い昔の町衆や紀州街道を行き交う旅人たちに親しまれてきた「辻八」の和菓子は、創業160年の歴史と味を守り続け、いまもなお地元で愛され続けています。

 

222222.jpg

 

当店の「和泉叢雨」は本市内で最も古くから製造しており、地元でとれたお米をはじめ、良質な素材のみ厳選し、着色料・添加物・防腐剤を 一切使用せず自然の素材をできる限りそのまま加工しています。小豆を一粒一粒ていねいにしぶをとりながら洗浄する等、 すべて手作りの作業でおこないます。そのため量産できませんが、そのぶん新鮮なままお客様のもとにお届けしています。

 


001006.jpg


001012.jpg




 

◆◆ご進物用に箱入りもご用意しております◆◆
tujihachi-history20.jpg

 

 

メディア掲載


tujihachi-history2.jpg

 

●食べ歩き大阪

tujihachi-history21.jpg

「叢雨」というお菓子をご存じでしょうか。小豆特有の風味を生かし、砂糖、餅粉、上新粉などを合わせ蒸し上げた、泉州独特の生菓子だ。辻八は現在5代目、商うものは和泉叢雨 のみ。
(以下略)

 

 

●まっぷる

tujihachi-history22.jpg tujihachi-history23.jpg

和泉叢雨ひとすじに5代目、旧紀州街道からひと筋海よりの小さな通り、ひっそりとたたずむ老舗。「叢雨」という和菓子は泉州独特のものである。小豆の風味を生かし、砂糖、 餅粉、上新粉などを合わせ蒸し上げる。(以下略)


 

 

●旅の手帳

tujihachi-history24.jpg

創業160年。伝統とこだわりの味「和泉叢雨」 厳選された自然素材を生かした手作りの味わいが好評。口の中でとろけるような食感は正に絶品。(以下略)


●辻八の詳しい紹介はこちら


株式会社 つぼ市製茶本舗



嘉永三年
創業

嘉永三年(1850年)、谷本市兵衛がつぼ市の屋号のもとに泉州堺に茶の貿易と茶問屋を創業いたしました。往時、堺は中世より栄えた商業、貿易の都市形態から工業都市への変革がはじまりつつある黎明期でありました。





明治の初めには、堺商工会議所が設立されその創立当初の社員として、谷本市治良(市兵衛)の名が堺商工会議所100年史の中に見てとれ、すでに大きな商いを行なっていたことがうかがわれます。





戦後
焼け跡からの再興

昭和に入り戦渦のなか、空襲により堺の旧市街は灰燼に帰し、自慢の堺造りと呼ばれた三棟の土蔵を持つ大きな商家も焼け落ちてしまいます。戦後、唯一焼け残った屋号の看板を胸に市治良はつぼ市の再興を誓います。昭和20年9月、戦争の傷跡も生々しく残る堺の街を後にし、本社を高石市に移転、操業を再開いたしました。





高度経済成長期
烏龍茶ブームの走り

時代を経て昭和45年、わが国は高度経済成長期に入りました。 この頃、茶の消費が急激に伸び、国内の消費に需要が追いつかず、四代目当主の谷本陽蔵は台湾茶の輸入に踏みきります。このことが日本における烏龍茶ブームの走りとなりました。 その後も陽蔵は福建、台湾を度々訪れ中国茶の研究を続けました。後に「中国茶の魅力」(柴田書店)や「お茶のある暮らし」(草思社)等の書物を著し、お茶の普及と啓蒙に力を注ぎ80歳を越えた現在でも、ラジオ番組(朝日放送)、お茶の講演活動を通してお茶の魅力を伝え続けています。





平成18年
伝統に築く最新技術

平成18年には、五代目谷本順一が、高まる食の安全性に対応する為、業界トップクラスの最新設備の工場(つぼ市第二工場)を建設。良質で安全、衛生的な製品づくりをめざし、ISO9001 認証、有機JAS認証も取得いたしました。





平成23年
200年企業へ

平成23年5月に業界初で大阪版食の安全安心認証を取得いたしました。そして、つぼ市は創業して160年以上を迎えこれは偏に、長年に渡る皆様方のご愛顧によるものと深く感謝いたしております。 これからもつぼ市は、ほんもののお茶づくりでお客様にやすらぎ、和、感動を提供しつつ200年企業をめざします。




株式会社 釣鐘屋本舗

創業明治三十三年 静かに響く釣鐘の音色・・・。

 


 


593年、聖徳太子によって建立されたと云われる日本最古の宮寺、四天王寺。 
この四天王寺を中心になにわの町は活気を増し、文化や生活が発展しました。 
明治33年(1900年)、地元の有志から四天王寺に大梵鐘が奉納され、大阪商人の心意気を示す快挙として評判になりました。

 


 


その奉納記念として、釣鐘のかたちを模した饅頭を、四天王寺の門前で売り出したのが「釣鐘まんじゅう」のはじまり。四天王寺参拝のお土産として、大阪名物として、人々に喜ばれるなにわの銘菓となりました。さて、残念ながら四天王寺の釣鐘は、第二次世界大戦の際に供出されてしまいましたが、変わらぬその姿と味を今に伝える釣鐘まんじゅうは、なにわの人々に愛され続けています。

 


shitenouji.jpg

 


 


ひと口ごとに広がる、懐かしい思い出。 

 


 


なにわのシンボル、通天閣。現在あるのは実は昭和31年に建て直された2代目です。明治生まれの初代は、当時としては東洋一の高さを誇り、卓抜なもの、ひとを驚かせたり楽しませることが好きななにわ人の気性に合う、まさに「シンボル」でした。 

 


 


時は移って昭和のはじめ。バナナが出回り始めました。けれど、当時のバナナは庶民の手の届かない高級果物。そこで、バナナを食べたい庶民の願いを思い、考案したのがさいしょのバナナ『名代芭蕉』です。 かたちはもちろん風味にまでこだわった、ユニークで遊び心あふれる『名代芭蕉』は、当時の人々に大いに可愛がられ、今もなにわの名物として重宝されています。

 


tenpo.jpg