大阪産(もん)名品の会


大阪産(もん)名品の会

大阪産(もん)事業者の歴史


だんぢり屋製菓 株式会社

創業70年を迎え、素材にこだわりを持ち続け、今や和菓子だけではなく洋菓子も商品豊富に取りそろえています。

 


だんぢり屋は創業以来、地元岸和田の郷土を生かし、誇りを持って菓子づくり一筋に励んでまいりました。

 


おかげさまで、銘菓「だんぢり」をはじめとする当舗のお菓子は、時代とともにたくさんの方々から高い評価をいただいております。
これからも長い歴史で培った技法を生かし、伝統の香り高い銘菓をお届けする所存でございます。

 


 


受賞


・大阪産名品認定商品
・岸和田ブランド認定商品
・よしもと47シュフラン2016金賞受賞

 



●だんぢり屋製菓の詳しい紹介はこちら



株式会社 長﨑堂

●大正8年(1919):
前年の7月、荒木源四郎は長く務めた三菱長崎造船所を定年退職。
51歳にして、出島の一角長崎市千馬町に菓子店「扇正軒」を創業。カステラづくりに精を出す。

●大正13年(1924):
経済恐慌により手がけた事業を失った源四郎は、長崎を後にし、唯一残ったカステラ業で再起を図るため大阪へ。
大阪市東区大手通(現中央区大手通)に格好の家を見つけ「合資会社長崎堂」を起ち上げる。

昭和13年.jpg

●昭和9年(1934):
缶詰カステーラの発明特許を取得。カステラの日持ちを良くすることに成功する。 発明の名称は「長期保存に耐えられるカステーラ類の製造方法」であった。
商品特性を活かし、満州・南洋群島・東南アジアに缶詰カステーラを送り好評を博す。
研究熱心であった源四郎の姿が、この商品からもうかがえる。

●昭和17年(1942):
太平洋戦争の激化による経済統制により、操業を一時中断せざるを得なくなる。

●昭和18年(1943):
天神橋南詰めの店舗は引き払い、源四郎は名古屋へ。それにより経営は二代目敏夫に継承される。

昭和18年.jpg

●昭和26年(1951):
周防町(現中央区心斎橋2-1-29)現在の本店の場所に「本舗 長崎堂」の看板を揚げる。

昭和26年.jpg

●昭和29年(1954):
会社組織を改め、本社を周防町(現本社)に置く。
このころ一郎の学友の父を通して、作家武者小路実篤と親交が深まり、包装紙のデザインを依頼することとなった。バラの絵が描かれた掛け紙が出来上がり、カステーラ等に使用する(昭和29年から38年まで使用)。このバラの絵の掛け紙は大きな評判を呼ぶ。
後の昭和36年には直筆で激励の手紙を貰うなど、良い関係を築く。

●昭和40年(1965):
三代目荒木一郎が新生「大阪長崎堂」の代表取締役に就任する。

昭和40年.jpg

●昭和42年(1967):
大阪市住吉区杉本町に本社工場を新築する。さらに、同44年には鉄筋二階建ての工場を増築する。現在に亘り、長崎堂を支える工場となる。

昭和42年.jpg

●昭和45年(1970):
この年、大阪府吹田市で日本初の国際博覧会、大阪万博が開幕。
このビッグイベントへの出店は、再建で出遅れていた長崎堂が大きく飛躍するきっかけとなった。

昭和45年.jpg

●昭和57年(1982):
長崎堂ならではの、そして若き日に願った「本物のカステラをつくりたい」という想いのもと、一郎はカステラづくりの原点に立ち返り、商品開発を進める。
試行錯誤を重ね、大正末期のレシピと江戸初期の材料配分を忠実に再現して開発した"復元カステーラ"が出来上がる。
初代源四郎の精神に倣い、手焼きにこだわり材料にこだわった、この"復元カステーラ"は好評を得ることとなり、今では指名買いの最も多い商品となった。長崎堂の看板とも言えるカステラである。

●昭和63年(1988):
昭和26年二代目敏夫が現在地に「本舗 長崎堂」の看板を掲げ、昭和54年にはティーサロンを設けるなど全面改装。そしてこの年11月に4階建ての店舗を 新築落成する。

昭和63年honten-01.jpg

●平成15年(2003):
四代目の荒木貴史が代表取締役に就任する

平成15年.jpg

●平成22年(2010):
節目となる90周年記念式典を開催する。
長崎堂の「カステーラ」が大阪府より「大阪産(もん)名品」の認定を受ける。後に「カステララスク」も同様に認定を受ける。

平成22年.jpg

●平成26年(2014):
中国・上海City'Super各店に出店。
日本国内のみならず、海外への出店も積極的に行う。

※ 詳細はこちらへ ⇒ http://www.nagasakido.com/history/

中野物産 株式会社

今も変わることのない味と品質を守り続けるお菓子。

そんな『都こんぶ』は1912年(明治45年・大正元年)に京都で生まれた中野正一氏によって生み出されました。

 


中野物産株式会社の歴史

中野正一氏は尋常小学校を出てすぐに大阪府堺市のある昆布問屋へ丁稚として奉公していました。

日々の厳しい生活の中で倉庫の中にある売り物にならない昆布の切れ端をおやつの代わりとして食べながらこんなことを考えていました。「こんぶに味付けしたらお菓子になるんちゃうやろか?もしかしたら売れるんちゃうやろか」


中野物産株式会社の歴史
●根っからの商才のある中野正一氏は昭和6年 (1931年)19歳で晴れて独立し、堺に中野商店を創業し、かねてから温めていたアイデアの昆布を原料としたお菓子を開発。それは今の『都こんぶ』の原型で、黒蜜の入った酢漬けの昆布で、そしてこの昆布を原料にしたお菓子に自分の望郷の思いを込めて『都こんぶ』と名づけました。

 

中野物産株式会社の歴史

 

●中野商店は生まれたばかりの『都こんぶ』を販売するためにまず駄菓子の販路に目をつけました。当時は子供相手の駄菓子屋が中心であったからこそ、菓子問屋の立ち並ぶ天王寺や松屋町へ売り込みを開始し、さらに中野正一氏は子供達の娯楽の中心であった人気の紙芝居屋にも目をつけ強力に売り込みを行ったことで、少しずつ『都こんぶ』の名前は全国に知れて行きました。

 

中野物産株式会社の歴史

●しかし「もっと人の集まるとこに行かなあかん」そう考えた中野氏の思いついた場所は映画館や演芸場。『都こんぶ』は、いままでの子供相手の商品としての需要ではなく、大人にも充分受け入れられる菓子であることを確信した中野氏の次に思いついた販売場所は鉄道でした。

 

●「日本全国に広がる国鉄の駅には売店がある。小さい『都こんぶ』やったらおいてもらえるはずや」と考えた中野氏の発想で、サラリーマンのポケットにも女性のハンドバックにも入り、しかも手のひらにすっぽりおさまるサイズを基本に、現在の原型となる、小さな縦型の紙箱に目立つ赤い色に桜の花びらと都の文字の『都こんぶ』が誕生しました。
中野物産株式会社の歴史

 

積極的なCM活動、鉄道共済会(現在のキオスク)での販売が加わり知名度が全国に浸透してきた『都こんぶ』を、どこにでも置いてあるお菓子にしたい。その思いを強固に後押しするために、当時では珍しかったテレビCMやラジオ放送を積極的に活用しました。

 

CMには当時のお茶の間を賑わしていた林家三平氏(1980故)や、才女で好感度の高いイーデスハンソン氏を起用、テーマソングを用いたCMによる宣伝活動を行いました。

 

中野物産株式会社の歴史
●また、大阪市内の南北の交通手段の要である大阪地下鉄御堂筋線の各駅(新大阪~西田辺)の改札口への 広告を実施。大阪万国博覧会前後という当時最大のイベントと絡み合ったことで『都こんぶ』は知名度を高めてゆきました。

 

中野物産株式会社の歴史
大阪ナンバ駅前のネオンサインなど工夫をこらした宣伝活動の効果もあり、水産庁長賞(昭和40年)・第17回全国菓子大博覧会大臣賞(昭和43年)を受賞した結果、昆布菓子では不動の地位を占めることになりました。

 

中野物産株式会社の歴史
●そして平成9年(1997年)に完成した大阪府貝塚市にある二色浜工場では『都こんぶ』、『おしゃぶり昆布』シリーズが約150人のスタッフの手によって昔ながらの方法で手作りを基本に製造しております。

●中野物産の詳しい紹介はこちら


株式会社 浪速育松月

昭和28年10月 初代社長 藤原勝利 岡山市西大寺から自転車一台で来阪「松月堂」創業
昭和30年 日本で2番目に誕生した地下街、ウメダ地下センター(ホワイティうめだ)に出店
昭和41年 「株式会社 浪速育 松月」設立
昭和45年 大阪ミナミの虹のまち「難波ウォーク」に出店 ※現在は閉店
平成元年 本店・改築オープン
平成5年 大阪国際空港(伊丹空港)にて「トラ焼」販売開始
平成6年 関西国際空港にて「トラ焼」販売開始 ※現在は閉店
平成11年 中津駅前店オープン ※現在は閉店
平成12年 SHOGETSU福島店(洋菓子)オープン福島店オープンに伴い、ウメ地下店閉店
平成20年 ケーキ&スイーツSHOGETSU 改装オープン
浪速育松月の歴史




 


 


 


メディア掲載



浪速育松月の歴史


大阪土産やっぱり「虎」

 


1953年創業の老舗菓子屋「浪速育 秋月」(本店・北区中津7丁目、藤原勝廣社長)の看板商品。
(中略)
原材料にとことんこだわり、生地には新鮮な卵と蜂蜜をたっぷり使用。ふっくら、ふんわりと焼き上げ、くり入りの北海道産小豆の粒あんを乗せてサンドしている。
どっしり食べ応えがあるが、柔らかな食感でペロリといける。
(中略)
専務取締役の藤原厚子さんは「若い子のあんこ離れをなんとか食い止めたくて商品開発に力を入れている。『とら焼』などを通して和菓子のおいしさを知ってほしい」と願う。



浪速育松月の歴史

えと模様 ふんわり甘く

 

黄色のスポンジにココアで茶色いしま模様をつけ、トラに見立てた。しま模様は自然な風合いを出すため、一本一本手作業。 スポンジの中には、生クリーム、カスタード、渋皮栗をふんだんにくるんだ。トラの荒々しいイメージとは違い、ほんのりやさしい甘さだ。
(以下略)


浪速育松月の歴史

とらロール 大阪名物に

 

販売しているのは大阪市福島区福島の洋菓子店「SHOGETSU(ショウゲツ)」。
一本づつの手作り作業で、職人がスポンジにココアを使って茶色の模様を描く。生クリームとカスタードクリームのほか、縁起物の「勝ちぐり」にちなんでクリも包み、口にいれるとふんわりした食感と甘さがとろけ出す。 同店を経営する「浪速育松月」(大阪市北区)がトラにちなんだ菓子を作りだしたのは平成4年。熱狂的な阪神ファンの多い土地柄や、大阪城天守閣の外壁に獲物を狙って身をかがめる「伏虎」のレリーフが飾られていることに目を付けた。
(以下略)


浪速育松月の歴史

とら吉クリームサンド

 

見た目にもかわいい「とら吉クリームサンド」は、パリパリのもなかにサクサクのクリームがたっぷり。 味は、きなことゴマの2種類。最高級のもち米を使ったもなかは、黄金色に焼きあげている。
(以下略)


 

その他、meets ,KANSAI1週間、SAVVY等の雑誌にて紹介されました。

 

 

●浪速育松月の詳しい紹介はこちら


布一屋

昭和元年、初代店主が現在地の石切参道で菓子小売店を創業。
その昔、「かた焼き」は、伊賀忍者の携帯食として親しまれ、初代店主が昭和27年に大阪・四天王寺の菓子店の職人から習い、それをもとに独自の製法、材料、味を作り出しました。
その後、昭和41年に2代目重顕が引継ぎ、平成20年に2代目が体調を崩したことから、「この味を絶やしてはいけない」と長男の嫁である3代目由利が後継者になりました。
「かた焼きは数々あれど、どこにもない布一屋独自の味です」と2代目。一方、3代目は「若い人にも受けるような新しい風味を出せないかと試行錯誤もしています」

 



 




 


メディア掲載


 





●よ~いドン!(関西テレビ)





●関西ちなみにガイド(関西テレビ)




 


●ドライブぴあ
昭和元年創業。店頭では多くの来店客が買い求めるという「かた焼せんべい」を実演販売。週末には焼きたてを味わえる。

 


●ヒット大賞
昭和元年から続く石切参道商店街にある、かた焼きせんべいの老舗「布一屋御煎餅司」。

 


●関西ウォーカー
創業以来同じ材料・製法で時間をかけて焼き上げるかた焼きせんべいの老舗。素朴で飽きの来ない味わいのかた焼は、ゴマ・青のりの2種があり、どちらもほのかな甘味が広がる逸品だ。

 


●国際グラフ(人と企業)
昭和元年から続く石切名物『かた焼せんべい』の老舗。香ばしい匂い包まれた店内には様々な種類のせんべいが並べられ、三代目が一枚一枚手焼きでじっくり時間を掛けてせんべいを焼く昔ながらの姿を見ることができる。「かた焼」の名の通り歯応え充分だが、口に入れると食べやすい柔らかさになるので硬いものが苦手な方にも安心。

 


●東大阪八尾ウォーカー

 

 

 


 

 

●布一屋の詳しい紹介はこちら