創業70年
戦後間もなく大阪阿倍野の地で焼芋屋として、創業しました。
庶民のおやつ、お土産物として創業以来、阿倍野界隈の人々に愛されてきましたが、情報社会の現代においては、他府県からの購買者も増え大阪は阿倍野の名物として認識されています。
嶋谷屋で一番の人気の「名物 あべのポテト」は、創業当時から変わらぬこだわりの方法で
作られています。厳選された薩摩芋とこだわりの揚げ方、そして独自の蜜で地元関西だけなく全国で愛されています。
ほくほくのポテトと大阪弁で書かれた包み紙に気持ちもほくほくします。
メディア掲載
沿革
大正12年10月 | 大西義一(先々代社長)個人にて開業。ソース及び食酢の製造を開始。 |
昭和23年12月 | 株式会社大黒屋を設立。 |
昭和36年10月 | 守口工場を新設。醤油の製造を開始。 |
昭和37年03月 | 清涼飲料水の製造を開始。 |
昭和41年09月 | 本社ビル落成(4階建)。 |
昭和42年03月 | ウスターソース類製造を完全オートメーション化。 |
昭和44年10月 | 清涼飲料水製造を完全オートメーション化。 |
昭和55年06月 | コンピュータシステム導入。 |
昭和57年03月 | 『酎割』の製造を開始。 |
昭和60年10月 | 本社倉庫兼事務所を増設(3階建延300坪)。 |
平成03年03月 | 自動充填機(ピストン式)設備の拡充。 |
平成13年08月 | 『酎割』充填機新機種導入、充填工場を改装。 |
平成15年10月 | 創業80周年。 |
平成16年04月 | 品質管理室の拡充、小ロット生産設備設置。 |
平成20年06月 | 大阪市港区新工場完成(クリーンルーム完備)。 |
つくるも売るも買う心。
~創業以来百三十年余り、受け継がれてきた大寅の精神~
大阪の「大」と初代・小谷寅吉の「寅」を屋号に、創業以来百三十年余り、「大寅」は大阪ミナミ戎橋筋を本店に代々「おいしい蒲鉾・てんぷらを提供すること」に情熱を傾け、皆様に愛される商品作りに努めてまいりました。
蒲鉾のおいしさは、舌に感じる「味」と、「足」と呼ばれる歯ごたえによって決まり、優れた蒲鉾をつくるには鮮度の高い魚が求められます。現在でも社長自ら、中央市場に出向き毎日新鮮な魚を仕入れているのです。
大寅では代々受け継がれてきた精神 "つくるも売るも買う心" をモットーに、ご家庭で、ご進物に、また、冠婚葬祭にと幅広くご利用いただけるよう、美味しい蒲鉾・てんぷらづくりに、そして気くばりの行き届いた親切な接客に、こだわり続けているのです。
明治9年、初代社長小谷寅吉が大阪沿岸で漁獲されるハモ、エソのほかに白身の小魚を原料として蒲鉾業を創業。
明治25年に大阪戎橋筋に新店舗をつくり屋号を『大寅』と定めました。
当時から、斬新なアイデアをとりいれ、今では一般的に見られる商品券の原型とも思われる "蒲鉾引換券" なども考案していたのです。
大正期に入り、東シナ海を漁場とする以西底曳漁業が勃興し、大寅は蒲鉾の原料魚としてこれの開発に着眼。
遂にグチを使用して在来の蒲鉾よりも勝るとも劣らない製品を創造しました。
大寅がその利用の先端を切ったので、これらの魚は「大寅グチ」、「大寅ニベ」と呼ばれ、大寅の基礎を定めたのです。この頃にも "進取の精神" が息づき、新たな開発意欲にもとづいて、多様な魚種を原料として使うことで、蒲鉾のおいしさを追求していったのです。
また、当時大寅はその製法を普及するために、大阪の技術者を中国、九州、北陸方面まで派遣し、技術指導に当たらせました。
このようにして絶えず大衆の嗜好に応え、業界全般の技術向上にも貢献してきました。
さらに昭和に入り二代目社長小谷権六は蒲鉾業界初めての全国団体、全国蒲鉾組合連合会の設立に寄与し、業界発展のためにも尽力したのでした。
戦後は昭和24年、株式会社組織として再出発し、その後もたゆまぬ品質改良の研究が重ねられ、
その中でも亀甲の模様に焼き上げられた『焼通しかまぼこ』は非常な好評を得、多くの賞を受けています。
因みに昭和24年水産庁長官賞、昭和26年、27年、28年と3度農林大臣賞、昭和26年、29年と両陛下に献上しました。
また、昭和32年に総理大臣賞、37年には業界最高の栄誉に輝く天皇杯を授与されたのです。
その後も昭和、平成と現在に至るまで、農林大臣賞など多くの賞を受け、大寅は名実とともに蒲鉾のパイオニアとして歩みつづけています。
一方、製造部門では昭和45年、当時としては近代設備を誇る工場を新設し生産量の増大、技術革新を図り、特に衛生面では業界に魁けて活性汚泥式汚水処理施設を設置する等、モデル工場的存在となりました。
さらに平成5年には新工場が完成し、手作りの製法のよさをそのまま取り入れた最新鋭の設備を導入。
味と品質にこだわり調理から包装にいたるまで一貫して行っております。
竹利商店は江戸時代末期の創業。
様々な地域の展示会にも出品され、大阪の銘菓として全国に知られていました。
作家の林芙美子、菊地寛もこの味を愛し、愛好していた時雨餅。
時雨餅は、砂糖、つなぎの餅米を混ぜ、そぼろ状にして蒸篭で蒸し上げます。
赤色は小豆餡、白色は白餡でつくられます。
「時雨」の銘の由来は、「餅であるのにべたつかず、はらはらとこぼれるさまが秋の時雨のようだ」と藩主岡部長慎公が授けたと伝えれています。
今でも伝統の味を守り続けるため、独自の製法で時雨餅作りを行っています。
無聲人呼(こゑなく人をよぶ)
竹利商店の包み紙には、この言葉が書かれいます。
「声を挙げなくても人は集まる」というこの言葉は、昔ながらの製法を守り続けながら「時雨」一筋で成してきた自負の思いからでしょう。
陳列には古くに書かれた「時雨餅」の由来が書かれています。
時雨餅の由来
約280年の歴史を持つ時雨(餅)は岸和田城主のお茶菓子として作られ城主が時雨と銘名。
当店が時雨の銘を賜り今日に至ると伝えらている。
尚、戦争の時、政府よりつなぎに餅米を使っているため主食の代用になるため餅をつけれと言われたので名誉と思い餅をつけたと家人が言っている。
岸和田本通商店街の入口にある古風なたたずまいが老舗「竹利商店」である。
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竹利商店は江戸時代末期に創業。「時雨餅」は、小豆餡、砂糖、つなぎの餅米を混ぜ、それを仕切りのある長方形の蒸籠に篩でそぼろ状に漉して入れ、平らにして蒸し上げる。赤い色の小豆餡製と、
白の白餡製がある。岸和田城内で作られた「時雨」と同じであるが、今次の戦争中、「餅」の字を付けるよう命ぜられたそうだ。
蒸しの時間の長短はあるが、薩摩地方の「高麗餅」と良く似ている。
藩主岡部長慎公の「他藩に誇れる独自の風味ある茶菓子を考案せよ」との命により誕生しました。餅であるのにべたつかず、はらはらとこぼれる様が秋の時雨のようだとこの銘を賜ったと伝えられています。 参勤交代での杉板と竹皮の包装が珍しいと評判に。
●創業時の奮闘
昭和8年2月、田代珈琲は「田代兄弟商会」として戦前にシロップの製造業を起業しました。創業者は田代 辰(たしろ のぼる)。 当時、銭湯や駄菓子屋や売られていたミカン水などの清涼飲料水を製造する「鉱泉所」というところが地域ごとに存在しており、そこにシロップを卸していました。そのシロップの味付けとしてコーヒーを加えてコーヒー牛乳の素を作ることになったことを契機に、その後は株式会社 房屋商店として改組し、コーヒーの製造も手掛けることになります。 戦前には大きく売り上げが上がり、地域の自治会や軍にも沢山の寄付を行い、数々の表彰を受けていましたが、戦争が本格化した時には会社を閉鎖、財産を抱えて香川県・観音寺に疎開することになりました。しかし、敗戦でその財産も紙切れとなります。 昭和23年の戦後、再び大阪の地でコーヒー会社を興すことになりました。戦後の会社経営は前途多難が予想されましたが、戦前の人脈から紅茶の輸入販売権を獲得し商売を大きく発展させていきます。しかし、すぐさま紅茶の輸入販売権も自由化され会社の勢いも失速することに...。その変わりにコーヒーの販売業は喫茶店、レストランなどでコーヒーが広く飲まれるようになり、昭和30年代になるとコーヒーの売り上げが大きく伸びてきました。 |
●復活と挫折の繰り返し
そんな最中、昭和41年に初代 田代 辰 は死去し、2代目田代好埈(よしたか)が25歳で継ぐことになりました。 この時代から「喫茶店ブーム」が沸き起こります。ブームのおかげで1978年頃までお得意先が増え続けましたが、 1973年のオイルショック、1975年のブラジル大霜害で価格が暴騰したりと経営環境が平穏であったとはいえず、2代目も経営のかじ取りには苦労したようです。1978年頃からはお得意先は減り続け、卸業から小売業へ、本社移転を機に業態転換をはかったのは1985年のことでした。 1985年を契機に本社を現在の東大阪市に移転し、家庭用の小売販売にも力を注ぎだしました。その頃、世はバブルに突入し、景気の良さから業績もアップ。小売業も早くに力を入れてDMを中心に地方発送も積極的に行いました。 |
●新しい時代のコーヒーを模索
しかし90年代にバブルは崩壊し、業績は悪化。迎えた1994年、2代目好埈が死去。3代目社長には長男 和弘が就任しました。 その後、多店舗展開を目指し1998年には4号店を開店させ、再び業績を伸ばしましたが、しかし、売り上げの伸びは止まり、多店舗での焙煎から豆の鮮度を保ったまま販売することに限界があり、方向性を模索する毎日が続きました。そこで1999年には社長の発案から、パソコンをまったく触ったことのないこの田代珈琲が、ネット事業を目指すことになります。 ホームページは2000年に完成しましたが、当初売り上げは作れず、試行錯誤の末モール出店などを契機に、コーヒーの販売業は少しずつ伸びてきていました。 同時にスペシャルティコーヒーという高品質のコーヒーとの出会いが、田代珈琲を大きく変えていくことになりました。 |
あ
か
さ
た
な
は
ま
や
ら
わ